ignorant of the world -散在思考-

元外資系戦略コンサルタント / worked for a Global Management Consulting Firm in Tokyo

自分の人生を賭して戦うことが、「自由」だ

つい先ほど、こんな記事を見つけて、禿同すぎて、悶絶死するかと思ってのエントリーです。

正解は「好きなように自分を縛ること」だ。

"自分を亀甲縛りして気持ちよくなることこそ本当の自由"

決して、「亀甲縛り」とかでググってた、なんて、わかり易いことはしてないです。いくら夜でもねぇ。


・・・


で、本題は、そこじゃなくて、内容です。
元ネタは、「自由」について論じているのですが、僕の見解を付け加えたいと思います。

本当の自由とは

「自由」ってのは、かなりのbuzzワードなので、考えるのが難しい概念だ。
僕が真っ先に思い浮かべたのは、中学入学直後から洗脳され続けた、

  • 「liberty」と「freedom」の違い

だ。
当時は、ただただ、暗記のように(そして、学校がなぜ存在するのか、その教育的側面を察知して)

  • 「liberty」は、ある規則の範囲内での、自立的/自律的な自由
  • 「freedom」は、言葉や行動について束縛や制限のないこと

と、みんなで議論したものだ。いや、させられたものだ。
いま思うと、実にマセタ中学生たちだった。


ふと、いまこの記事を書きながら、googleで調べた。

リバティー「Liberty」とは他人の権利とぶつかってでも自分の権利を主張しようとする攻撃的、能動的な自由をさし、自由の女神の英語名は「the Statue of Liberty」であるから、自由を勝ち取る女神のことを意味し、・・・

"リバティー「Liberty」とフリーダム「Freedom」二つの自由と自由の捉え方"

違うじゃねーか!(爆)
いきなりかい。
10年以上、騙され続けていた。
こうなりゃ、ゼロベースで考えるしかない。


liverty、freedom、どっちにしても、「〜〜からの自由」という概念だ。
「〜〜」には、いろいろ入るのだろうが、一般的には、何らかの束縛や制限、他者とのコンフリクト、抑圧などを指すと考えて間違いないだろう。
そうしたときに、人間の根源的な欲求をよくよく考えてみると、3つくらいになりそう。

  • 時間的自由
  • 空間的自由
  • 経済的自由


仕事とか関係なく、思いっきりのんびりしたい!
海外に行きたい!
めっちゃ高いけど、毎日、最高級のワインとフレンチが食いたい!
そんな3つの自由を、なんとなく望むのが一般的なんじゃなかろうか。


実は、時間と空間はあわせて「時空」と言われるように、物理学的にも表裏一体の概念なので、一方を追求すると、一方を損ねる、という二律背反の関係がある。例えば、遠くまで行きたい!という空間的自由を最大化したければ、時間を投資して、がんばって歩いたり、電車で移動すればよい。なるべく時間を損ねないようにしたければ、お金を使ってジャンボジェットに乗る、とかすればよいのだが、経済的負担がかかることになる。
要するに、直感的には二律背反なのだけれども、実生活上では、“三”律背反?、じゃんけんみたいな関係にあることが多い。


しかしながら、
時間には、人の一生、多くて1世紀(100年)という制限があり、
空間には、人間が到達できる範囲で地球上(と宇宙の一部?)という制限があり、
経済には、まぁ、サラリーの制限があるわけです。
だから、本当の自由とは、制約の中にあると考える。


無限の自由なんてものは、そもそも存在しない。
じゃあ、自由じゃないじゃん、と思うかもしれないけど、要は考え方・感じ方次第で、無意識のうちに想定している「制限」が隠れていると思う。
「お金がいっぱい欲しい!」といっても、「じゃあどれくらい?」と聞けば、10億とか100億とか答えられるわけである。誰も「1京9,999億欲しい!」なんて言わない。
ただ、「いっぱい」という漠然とした感覚値を、上限として持っているのである。

本当の自由を手に入れるために

僕自身は、時間・空間・経済の制限の中で、その制限を破って自分の想定まで届くように、
あるいは、その制限の中で最大限、豊かな人生を歩むための行いを「広義の努力」ととらえている。
制約の中で「自由」を最大化する営みが、「努力」なのである。


最近、はてな界隈でも、この記事を発端として「努力」の定義について、様々な議論が交わされた。
"最近見た素晴らしい「努力」の定義 - インターネットください"
はてブのコメントには、

yo4ma3 考え方 id:toaruRさんの言う「微分」の考え方が一番しっくりくるな。結局、何を目標/成果とするかであって、大きな目標に辿り着くための小さなステップを、“正しく”登ることが「努力」なんだろう。正しくなければただの徒労 2009/09/17

と書いた。これは、「狭義の努力」だ。


例えば、
freeな時間を作るために、仕事を早く終わらせるとか、
少しでも遠くに行くために、走る練習をする、車や飛行機を作る、インターネットを構築するとか、
経済的に豊かになるために、高給取りの資格を取るだとか、些細な話もあれば、人類の進歩に役立つような話もある。
複合的に組み合わせて、ある目的達成のための順番立てを作る。時間を作って、副業して、稼いだお金で豪遊、とかね。


結局、自由を手に入れて何をしたいのかという「目的」を、具体的な「目標」にどう落とし込むかで、一瞬一瞬の動き方は全然違ってくる。
効率的な動き方もあれば、struggleしながら悶え苦しむ動き方もある。どっちも「目標」に1ミリでも近づいている限り、正しい。
一方で、大小あれど、自分で設定した「目標設定」自体が間違っていたり、動き方を間違えることで、一向に“階段”登れない徒労もあるのも事実。


最初の「好きなように自分を縛ることが、本当の自由である。」には、激しく同意した。
しかし、それは自由の感じ方に関するTipsの意味合いが強い。
制約の中でこそ創造性が発揮される。とは、よく言ったもので、
制約のある中で設定された「目的」「目標」に向かって、自分の人生を賭して「情熱」を持って取り組むことを「自由」だと思う。


そんな秋の夜長でした。