ignorant of the world -散在思考-

元外資系戦略コンサルタント / worked for a Global Management Consulting Firm in Tokyo

「東大生論」

とあるブログを見ていたら、面白い記事を発見したので少し。

(p.201)
「『東大です』と言うと『へぇ〜』とか感心されるんだけど、でも、やっぱり”頭が固くて勉強しかできないんでしょ”というイメージで見られてるんだろうな、という思いもあって、それを何とか破りたいというのはすごくある。東大生と見られて評価されることは嬉しいんだけど、その評価の裏側にマイナスの評価もあるわけじゃないですか。”そのマイナス評価で私を見ないでくれ”みたいな。人と話をするときでも、勉強以外の面で話を振っておかないと勉強だけの人間と思われる危機感が常にある。」

http://d.hatena.ne.jp/bluede/20060928/1159457269


なんという自分(笑)
入学当初、自然とそういう意識が芽生えて、浅はかな考えで「一応、東大生です」と無意識で言っていた自分を殴りたい。


正直、今となってはどうでもよい。
こうゆう東大生論にはウンザリしているから。



極論言ってしまえば、東大に入ったのは、その「実績」が欲しかっただけなんだから。

知の最先端に触れ、未踏の地(知)を開拓する喜びを追求したい、という思いはある。勉強を一切しなかった浪人時代、毎日、図書館にこもり、好きなだけ、満足いくまで知の世界を縦横無尽に駆け回ることができた。誰に強要されるわけでもなく、心の赴くままに駆け回る子犬のように、本当に幸せだった。

ただ、入学してがっかりしたのは、学生の視座の低さと、低レベルなマウンティング合戦だ。知の格闘をできる仲間もいたけれど、自分も追究するからには、世界の最先端で戦い続けたい。それは、学部で体験できるものではないし、今にして思えば、欧米かぶれの教養論者や飛び級重ねるエリート教育への漠然とした憧れがあったのかもしれない。

一方で、自分の人生における責任・ミッション、成し遂げなければいけない使命もある。その両立をあきらめるには十分な落胆がそこにはあった。
この辺はいつか気が向いたときに書いてみたい。


なお、他人に大学についてトヤカク言われると、

「お前の評価なんてそもそも聞いてないし。評価されたくないわ!」

って、つい思ってしまう。


実は、これが正しい「コントローラー」の反応なのだが、謙虚にならなきゃいけない。


「コントローラー」という表現の他にもいろいろありますが、詳しくはコーチングの「DISC分析」
http://www.c-japan.co.jp/disc_about.html
http://www.cwo.zaq.ne.jp/coach/type/
http://www.jah.ne.jp/~pegira/cgi-bin/coach/coach.html
http://rs125.org/main/archives/ind_06-0308-1126.php
を参照してみてください。
自分はやっぱり「コントローラー」だ。